はじめに
なぜか今、とある温泉の旅館でブログを書いています。
日曜の夕方に妻が「どこかでのんびりしたいな~」とつぶやいたので、「じゃあ明日温泉にでも行こうか」と冗談半分で言ってみたら、「それええやん!そうしよう!!」と乗り気になって、急遽温泉に泊まることになりました。
突然の話だったので僕は昨日朝4時から仕事を始め、昼の3時に終わらせて温泉へ向かいました。
とはいえ、平日の温泉は人が少なくてなかなか良いものです。
ゆったりのんびりとお湯につかったり、ご飯を食べたりできるのがよいですね。
ところで、今回のエントリは温泉で起きたおもしろハプニングの話・・・ではなく、大人になってからときどき感じていることを、つらつらと書いてみようと思います。
僕の昔は「大昔」?
僕には7歳の息子と5歳の娘がいます。
そろそろ彼らには兄妹だけで寝てほしいんですが、まだそれができません。
なので彼らが寝付くまで僕も一緒にベッドに入ります。
昨日の夜もそうでした。
そんなときによくリクエストされるのが、「昔の面白い話」です。
これは桃太郎とか浦島太郎のような昔話ではなく、僕自身の昔の思い出話です。
昔はこんなことがあった、あんな体験をした、みたいな話をすると結構喜びます。
「昔の電話はダイヤル式の黒電話だった」
「お父さんが小学校一年生の頃に初めてファミコンを買ってもらった」
「昔はレンタルレコード店でアナログレコードを借りて、カセットテープに録音をしていた」
・・・そんな話は昔と言えば昔なんだけど、自分の中ではそこまで「大昔」っていうわけでもありません。
でも子どもたちから見ると、「超レトロな話」に聞こえるんじゃないかと思います。
父の昔は「大昔」
思えば僕も小さい頃は父の思い出話が「超レトロな話」に聞こえていました。
「小さい頃はアメリカの生活がみんなの憧れだった」
「小学xx年生の頃に冷蔵庫やテレビが初めて家にやってきた」
「大阪へ万博を見に行った」
・・・みたいな話を聞いたことがありますが、当時は本当に大昔の話だと思っていました。
アルバムの写真を見せてもらっても父が中学生ぐらいになるまで全部白黒だし、どれも「現在はあって当たり前か、それ以上に進歩している物」ばかりでした。
でも、今考えるとそれを話していた僕の父親も「そこまで大昔の話じゃない」と思っていたのかもしれません。
(ちなみに父親は戦後生まれです。いわゆるベビーブーム世代ですね。)
時空が断絶されている昔は「大昔」、連続している昔は「このあいだ」
自分の中で時空が連続していると、昔「アナログレコードを借りてカセットテープに録音していた」のが、なぜ今は「インターネットでダウンロードしてiPhoneやiPodにコピーしている」のか、理由や背景がわかります。
たとえば、CD、MD、インターネット、iPod、iPhone、といろんなテクノロジーの誕生を目にしてきて、実際にそれらを使ってきたからです。
時空が連続していると、昔は昔でも「理不尽なほど大昔」にはならない気がします。
逆に時空が断絶されていて、「カセットテープ」と「iPhone」の間に体験したことのない暗くて大きな溝が横たわっていると「はるか大昔」のことに聞こえるんじゃないでしょうか。
それは過去のことだけでなく、未来の方向についても同様です。
父は完全に大人、じゃあ僕は??
小さい頃の僕から見た父親は、どう見ても「完全な大人」でした。
外で仕事して、お金を稼いで、家を買って、車を買って、当たり前ですが「子どもである自分にはできないことばかりできる人」でした。
もちろん経済的な面だけでなく、知識の面でも「何でも知ってるすごい人」でした。
当然物の考え方も「大人」なわけです。
父親との知識面の格差は中学、高校、大学と進むにつれてある程度縮まっていきましたが、経済面での格差は大学を卒業しても強く感じていました。
大学を卒業したての自分には「将来結婚して子どもができて自分の力でお金を稼いで家や車を買ってるような自分」を想像することはできませんでした。
ところがその10数年後、いつのまにかそれらを全部実現している今の自分がいたりします。
ただ、これについては全部自分の努力のおかげ、というわけではなく、周りの人々の協力や運の良さみたいなのも手伝ってこうなった感じです。
とはいえ、なんだかんだいっても10数年前には無理だろうと思っていたことが実現できているのは今でもちょっと不思議な気分です。
周りから見れば僕はすでに「立派な大人」になりました。
まあ僕はそこまで「立派」ではないかもしれませんが、少なくとも子どもたちからは十分に大人だと思われてるんじゃないでしょうか。
子どもと大人の境界線は目に見えない
しかし、この点についても自分の中では「そうかなと思える自分」と「全然そうじゃないと思う自分」が二人いたりします。
子どもたちは「大人である僕」しか見ていないので、彼らにとって僕は最初から「大人」です。
しかし、僕は「昔子どもだった自分」を知っています。
しかも、それまで幼虫だったカブトムシがある日突然背中の殻を破って成虫になったような変化があって僕は大人になったわけではありません。
この間まで「何も出来ない子ども」だった気がするのに、少しずつ自分や環境が変化してきて、ふと気付いたら「大人と呼ばれるようなレベルに達していた」というのが僕の感覚です。
何が言いたいのかというと、この間まで自分は子どもだったし、今でも100%大人になりきったという実感がない、つまり「自分はまだ子どもである」という感覚がまだ自分の中に残っている、ということです。
時空が断絶していると「父親はすごい大人」ですが、時空が連続している本人にとっては「自分は大人みたいな子どもみたいなどっちつかずの人間」だったりします。
もしかすると、60を過ぎた僕の父親も今なおそんな気持ちを感じていたりするのかもしれません。
人生は長い?それとも短い?
こういうことがわかってくると、過去や未来について物の見方が少し変わってきます。
たとえば、小さい頃に学校で習った「戦争中の悲惨な話」は自分には「想像もつかないほどの過去」でしたが、70年前のできごとなので実際に戦争を体験した方はまだまだ生きていらっしゃいます。
その人たちにとっては戦争から現在までの時空が連続しているので、たとえ70年前であっても「そう遠くない過去」なのかもしれません。
また、僕が学生時代によく聞いてた音楽は「ついこの間まで聞いていた青春ソング」かもしれませんが、かれこれ20年近く経ってる今となっては10代の人たちからすると「自分が生まれる前に流行っていた懐メロ」です。
若い頃は「人生は短い」と言われても実感がわきませんでしたが、実際には短いのかもしれません。
時空が連続していれば「大昔」も「ついこの間」と感じるときがある以上、年を取ってから過去を振り返ると「人生は短い」という言葉が自然と出てくることも想像できます。
一昨年、90すぎで亡くなった僕の祖父も、もしかすると若い頃や幼かった頃を振り返って「意外と人生は短かった」と感じていたのかもしれません。
生まれつきすごい人なんていない?
自分の人生だけに限らず、他人を評価するときの感覚も同じです。
「自分なんて足下にも及ばないぐらいすごい」と思えるような人でも、その人と自分の間の時空は断絶していて「現在のすごい状態」しか見ていないから、その「すごさ」が際立つんじゃないかと思います。
時空が連続している本人にとっては「自分ではそんなにすごいことはしていない」と思っていることはざらにあるんじゃないでしょうか。
少なくとも僕自身は「全然すごくない人」だと思っていますよ。(え、誰もすごいと思ってないですって?はい、おっしゃる通りですね・・・)
まとめ
そんなわけで今回は、時空が連続しているかいないかで、物の見え方が大きく異なることがあるんだなあ、ということをつらつらと書いてみたエントリでした。
あまりオチらしいオチもなくてごめんなさい。ではおしまい!